若手育成、日本語テキスト作成 鬼教官も苦しんだ(産経新聞)

 米国で原発を学んだ12人は帰国後、「鬼」と呼ばれた。彼らに課せられた使命は、米国での経験を日本国内の社員に伝えることだった。

 「怒鳴られっぱなしの毎日で、まさに鬼だった」

 昭和43年、建設が進む関西電力美浜原子力発電所(福井県美浜町)に志願してやってきた元美浜原発当直課長の稲田仁は、12人の教官を前に声を失った。

 午前9時から午後8時まで続く授業。しかも、その後の試験に通らないと合格にならない。

 美浜原発には100人を超える若手技術者が集められ、狭くてほとんど身動きが取れない劣悪な環境から「チキンハウス(鶏小屋)」と呼ばれたプレハブ小屋で連日、原発の運転技術などについて学んだ。あまりの厳しさから逃げ出そうとする者も現れた。

 12人のリーダー格で元美浜原発所長の故藤井源太郎は「赤鬼」、大学で原子力を学び、理論派で色白だった元専務の山崎吉秀は「青鬼」と恐れられた。

 だが、そんな鬼教官たちも苦しんでいた。最大の難題は米国で学んだことを基にした日本語版のテキスト作成。授業を進めながらテキストをつくる日々で、山崎は「授業終了後にテキストづくりが始まる。寝るひまもなかった」と話す。

 また、難解な原子力の理論をいかに伝えるかについて、話し方だけでなく、絵を描くなど工夫を重ねた。米国での経験をいかし、クイズを多用する方法も採用した。

 現場の大切さを教えるのは赤鬼・藤井の役目だった。「五感で感じろ」。これが藤井の口癖だ。

 熱や振動など異変の兆候を見極めるには触って、音を聞いて、温度を見てという地味な作業の繰り返し。「機械にも“人格”はある。自分の子供のように接しないといけない」と何度も説いた。

 稲田は「最初は厳しさの意味が分からなかった。しかし、徐々に厳しさのなかにある優しさに気付き、みなまとまっていった。12人の教官は『何としてでもやり遂げるんだ』と決意にあふれいた」と振り返る。

 100人超の若者が苦しんでいる横では美浜原発の建設が急ピッチで進められていた。45年に大阪で万国博覧会が開かれることが決まり、そこに美浜原発で作り出した初めての電気を送る計画が浮上したからだ。

 しかし、原子炉を納入した米ウエスチングハウス(WH)社との連携がかみあわず、工事は思うように進まなかった。各段階で行政機関に書類を提出する必要があったが、ほしい資料がなかなか届かなかった。

 山崎は「当時は米国でも建設ラッシュで、日本は後回しにされたのだろう。WH社にしても日本の規制の厳格さを理解できなかったようだ」とする。

 米国から派遣されたWH社の技術者と、12人を中心とする日本の技術者は連日のように衝突し、口論を繰り返した。美浜では顔を真っ赤にして目を血走らせる藤井の姿がよく目撃された。

 =敬称略

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